About me



言うまでもありませんが「ヒトは一人で生まれてくることはできません」


< About me > <& Family line >(祖先に感謝を込めて子孫に伝えます) 


 < About me > <& Family line > 


私:鹿児島県生まれ⇒大阪府育ち
鹿児島県:父方祖母の実家:鹿児島県曽於郡(現 曽於市)末吉町:薩摩藩士 愛甲氏 の直系
大阪府内:幼稚園→小学校(柱本小)→中学校(高槻七中)→高校(高槻南高)→大学→専門学校
阪本家:先祖代々大工の棟梁家
祖父(故 阪本多賀造)は 旧制市立大阪工業学校 出身で曾祖父を継いで大工の棟梁
(私は棟梁の器ではありませんが、
 :別の時代に生まれていたら、「鍼」ではなく「釘」を打っていたかもしれません…)
母方の実家:和歌山県白浜町古賀浦
祖父(故 中村光義)は 西式道場「碌大荘」 を営み、白浜町議会議員も務めた
私:平成12年から奈良県在住(妻の実家が斑鳩町、妻は奈良県が大好き、というご縁で)
  20年以上住んだ感想ですが、自然環境に恵まれ、物価も安くて住み良い町です
  自然環境:保護団体の方々のおかげで三郷町や平群町では野生の「蛍」が見られます
私:平成18年「おかげ堂鍼灸治療院」開業




 <参考資料> リンク



「岸本良信公式ホームページ 藩士と幕臣の名簿 薩摩藩(鹿児島藩)」

「家系家族史 家族のルーツ(鹿児島藩(薩摩藩)のご先祖調べ)」

「早稲田大学 古典籍総合データベース 薩摩藩士名簿」(書籍画像9枚目右端 御広敷御用人)

「きとはん」HPには、昭和時代の古賀浦「霊前橋」を囲む風景写真が多数公開されています
「きとはん」HP → 南紀白浜 → 白浜温泉 → 時代の移り → まとめ → 古賀浦
「きとはん」HPには、白浜町の詳細な歴史を記した「村の日記」も公開されています
「きとはん」HP制作関係者の皆様方に感謝申し上げます







 <Family line> (私以外はすべて故人:祖先に感謝を込めて子孫に伝えます)





  阪本家
…小平治 → 儀右衛門 → 乕吉 → 多賀造 → 忠道 → 私



       1845生  1875生  1908生



 祖父多賀造と祖母エミは恋愛結婚で、両者が出会った時代は未だ身分社会の名残があったらしい
 曾祖父正孝は、エミ(士族)と多賀造(平民)が結婚することに猛反対だったと
 祖母(エミ)から直接聞かされたことがある
 「Bravo ! !  お祖父ちゃん ! & お祖母ちゃん ! 」




 

愛甲家
…利兵衛 → 萬左衛門 → 藤五郎 → 正孝 → エミ → 忠道 → 私



       1821生  1850生  1888生 1911生



 数世代に渡って「肝付氏」「小田氏」「諸留氏」「吉留氏」等の『薩州島津家分限帳』に見られる
 「氏」族との姻戚関係(DNAの融合)が見られる
 私の小学生の頃、鹿児島の家には五右衛門風呂があった
 燃やすのが面白くて裏山にいくらでもあった杉の木の枝をどんどん放り込んで叱られたことが懐かしい




   


中村家
…亀代治 → 光義 → 靖子 → 私



      1888生



 祖父光義と祖母幸には10人の子供(5男5女で、母靖子は五女)、昭和17年に多子家庭として
 国から表彰を受けている(地方紙にも掲載された)
 若いころ光義は大阪北浜で写真製版業を営み後年、「碌大荘」を創るために和歌山県白浜町に
 居を移したと叔父(光義の五男、母の弟)から聞いたことがある




 光義の次男(母の次兄)は「旧 国立療養所刀根山病院」の医師で「実験的結核性空洞に関する研究」
 にも従事していた
 映像資料<閲覧注意!解剖場面あり> 「結核学術映像 空洞を探る」(16分25秒) が残されている
 映像の01分過ぎに出てくるのがたぶん母の二兄(=私の伯父)と思われる(?未確認)
 母は二兄のことを「阪大の兄貴」、「博士の兄貴」と呼称し誇りにしていた




 小学生の頃、白浜の家には大きな風呂場、それも出っ放し(「源泉かけ流し」は後で知った言葉)
 の温泉があるのが不思議に思えて面白かった
 ある年の夏、家を継いで敷地内で自動車の修理工場を営む伯父(母の三兄)が私たち兄妹を含めて
 従兄弟姉妹たち6、7人を海水浴場に連れて行ってくれた
 帰路も海パン(水着)のまま乗れるようにクルマのシートに防水カバーを付けて迎えに来てくれた
 海で遊んだ海パン(水着)のまま温泉に直行して従兄弟姉妹たちと風呂場ではしゃいだ記憶が懐かしい
























 








 「施術者」へ戻る